四代目又右衛門の頭の中を書いたブログ

MATAEMON'S THINKING BLOG

私が10年前にモンゴルにおいてミッションを行おうと思ったのは、急速な経済成長を遂げ、貧富の差が拡がり、そのことによってマンホールチルドレンとよばれる家族との絆を失った厳しい生活環境を強いられている子供たちが増え、またスリなどの犯罪も増えてきた都市(まち)ウランバートルと、少し市内から外れた草原においては、電気、水道、ガスなどもないが、厳しい自然や動物と共存しながら、家族が深い絆で結ばれた遊牧民の生活がある。まさに物が豊かでありながらも、心貧しき生活と物は無くとも心豊かな生活この両者を自分の目で見て感じることで、私たち日本人が忘れ去ってきた人として大事なものを呼び起こすきっかけになるのではないかと考えたからである。

 

さらに普段の生活から離れ、実際にこのモンゴルの地に身を置き、恵まれた普段とは違う生活をしながら、ボランティアで学校建設や農作業などを、子供たちと一緒に汗を流しながら行うことで、今までと違う自分を発見し、人のため社会のために、自らの力を発揮することのすばらしさに気づき、周囲を思いやる気持ちを抱くことによって「逞しい人間力」を育むことはできるのではないかと思ったからである。

 

注:写真は10年前の風景です。

 

 

そしてその実施、建設から10周年を迎え、当時の子供たちが作った施設は有効利用されているだろうかなど検証の意味もふまえて、私は久しぶりにこの街と遊牧民の生活に触れてみるために今回の訪問に至ったのであった。

 

今回はたった数日間の滞在であったが、当時多くの皆さんの協力と援助を受け、地元の子供たちやボランティアの皆さんと作った施設が今もなお受けつがれ、さらに発展していることが確認できた。

またそれと同時に、この都市の当時と変わらない、良きところ悪しきところ、当時と変わった良きところ、悪しきところを垣間見ることができたような気がした。

 そしてこの訪問の終盤に、都市を一望できるザイサンの丘にのぼり、10年前の風景と重ね合わせて都市を眺めていた。

 

 

 

これが10年前にみたザイサンの丘からの風景である。

 

そしてこれが今の風景である。

 

 

10年経ってこの地に立つと、いろんなところが変わってきているのに気付いた。

 

都市には多くのビルが建設され、小高い丘には住居がひしめき合っている。このザイサンの丘のふもとにも、視界を遮るかのような商業施設や、購入には1億円をはるかに超える高級住宅街が建築ラッシュを迎えている。

 

市街地は高級車が多く走り、スーパーブランドの出店やホテルや飲食店、スーパーマーケットも多くできて、都市化が進んでいる。

 

 

そのためか恒常的な交通渋滞や環境汚染も以前より深刻になってきているのもわかる。恐らく貧富の差も広がっているのではないかと思う。

 

私は、近代化が進むことには良いところは多くあるが、それでも必ず守らなければならない自然や風土、景観がある。私はこの都市がもっと近代化が進んだ時に、きっと失われたものの尊さに気づき、後悔をするのではないかと思う。そうならないためにも古き良きモンゴルの自然、文化を守っていってほしいと切に思った。

 

 

そして最後に私がモンゴル遊牧民の生活において気づかされたことなどを書かせていただき、長々続いたモンゴル訪問記を締めさせていただきたい。

 

モンゴルの草原で暮らす遊牧民には、学校や病院、警察もない。さらに厳しい大自然の中での生活でありながらも、周りの人に囲まれ、笑顔を絶やさないお年寄りの姿がある。
それに比べ日本では、街にはバリアフリーが多く導入され、デイケアなどの老人介護施設が多く建設されているものの、街での生活に不自由しているお年寄りが多くいる。

 

これは何が違うのだろうか?

 

私には今の日本は、お金をかけ、設備や施設を用意し、それでことを終えたような気がしている人が多くいるのではないか、それで自己満足しているのではないかと感じてならない。

 

私は、物を作り与えるだけではなく、お年寄りを敬い、困った人を助ける、人としての当たり前の心を持ち、互いが思いやりの心をもって生きていかなければならないことをモンゴルの遊牧民から教えられた。

 

そして本当に大切なものは、お金や物ではなく、人を愛する心、愛し続けることできるかということだと思う。

 

 

私自身、今まで目先の欲にとらわれてしまい、道をそれてしまいそうになったこともある。またこれからもそのようなこともあるかもしれない。でもその時に、ここでの学びを思い出して、あらためて自らを見つめ直し、本来の人としてのあるべき姿に立ち戻り、多くの人と手を携えながら生きていかなければならないと確信する。

そして最後に・・・

 

人は文明という偽りの正義の名のもとに、自分たちの都合で地球を破壊していっているのではないだろうか?またそれらが本来は過ちであるということに気づいていながら、その文明の居心地のよさから離れられず、自然をないがしろにし続けているのではないだろうか?

 

私はその警告が、近年の大震災であったり、今回の大島や広島など各地での大水害であったりするのではないかと考える。

 

同じようなことを繰り返されぬように、地球を愛し、自然を愛し、人を愛し続けていく心が必要であり、今こそ人類はそれらを行動として求められているのではないかと感じてならない。

 

 

 

相変わらず稚拙であり、乱文のため、読みづらく、意味も理解しがたいであろうに関わらず、その辺をご理解いただき、最後までお読みいただける皆様の心に感謝いたします。ありがとうございました。

 

 

27日の朝、たどたどしい英語でカウンターに行き尋ねると、私が乗るCA953北京発福岡行は、やはり北京で国内線に乗り換え、そして大連に向かい、またそこから出国手続きをして国際線に乗り継ぎ福岡に行くとのことだった。

 

この便は大連経由と知っている人は全然問題ないことなのだが、北京からトランジットで日本と思いこんでいる私には、何ら事前告知もなかったので、かなり焦ってしまった。
今振り返るとカウンターであなたの乗る飛行機は国内線と言われ、何で日本へ帰るのに国内線に行かなければならないのだ。私は国際線に乗るんだと言い張った自分が少し恥ずかしく感じてきた。そして自分の先入観と、焦ったときの平常心のなさ、さらに会話力の低さをまじまじと感じさせられたのだった。

 

そのようにして、北京を出発し大連に到着すると、飛行機の出口間もないところから、そのまま到着ゲートに向かう人と、福岡に行く人に振り分けをされた。

 


写真のような紫色の通行手形のようなものを手渡され、簡易な出国審査を終え、階段を昇ればそこは出発ゲートであった。そして少しの時間休憩をして、福岡行の飛行機に乗り込んだ。

 

 

乗り込み大連空港を飛び立ち、約2時間後福岡空港に到着した。

 

そしてやっと食事をとり、ラウンジでPCに向かい仕事をし、再び伊丹行の飛行機に乗り込んだ。
 

 

そうして約1時間で伊丹空港に到着した。

 

直行便だったらウランバートル~大阪は約4時間。

 

今回はウランバートル~北京~大連~福岡~伊丹約24時間かけての到着となった。それも、遠回りしたわけではなくほぼ直線に近い形での乗り継ぎなのにこのようになってしまった。

 

ただこの短い区間にも関わらず時間をかけて帰国したが悪いことばかりではなかった。おかげで経験値も高まった。さらにアタフタしている私を友人が激励やアドバイスをしてくれて、何とかクリアできた。本当にありがたいことが多くあった。

 

またこの路線を使うかどうかは微妙だけども、ウランバートルには必ずまた行くことになる。もし同じ行程の場合は、ゆったりした気持ちで同じ経路を笑いながらたどってみたいものだと思った。

 

さ~とりあえず無事帰れた。さて明日の資料作りを頑張ります。


これでモンゴル訪問記は終わりです。

 

前回にも書きましたが、モンゴルを訪れ感じたことはまたブログアップしますね。

 

皆さん。見ていただきありがとうございました。

 

いよいよ今日が最終日。珍しく雨が降っている。朝の待ち合わせうまく時間が合わなかったり、激しい渋滞に巻き込まれたりなど、中々うまく動けなかったが、何とか視察を終え、今回のもう一つの目的の手がかりは何とかつかむことができた。また内容が伝えられないものもあり、もう少し具体化してきたら皆さんにも報告をしたいと思っている。

 そうこうしているうちに、気が付けばお昼をまわっていたので、パートナーと一緒に最後の食事をとることにした。



 羊のスープに、モンゴル焼うどん。正直私は羊肉が苦手なので、抵抗が少しあるのだがせっかくなので最後のしめはこれにした。

 最近ではウランバートルでは、コリアンでも和食でも何でも食べることができる。おまけに少し創作っぽいイタリアン風のモンゴル料理もできてきたらしい。
 

さらに以前は百貨店のようなものがあるぐらいだったか、今ではヴィトンやボッテガなどの直営店もできている。スーパーも多くできていた。

 またいろんな施設の建設も進んでいて、確かに街は近代化してきている。ただすべてが喜ばしいこととはみんなが思っているわけではない。この辺のことについては、またまとめて感じたことをかければと思っています。

 

食事を終えると、飛行機の出発2時間前だったので、空港へと向かうことにした。そして途中線路を渡った時に、ふと思うことがあった。



 そして出発前だがパートナーに最後に行きたいことがあるとお願いして、ウランバートル駅に連れて行ってもらった。




 

この路線は大瀧詠一の歌「さらばシベリア鉄道」の影響か以前から一度乗ってみたいと興味津々だったシベリア鉄道であり、運が良いことに1日1本ぐらいの列車が止まっていた。

 

 

本当は路線で北京やモスクワに向けて乗ってみたいのだが、そこまでの時間は私には到底無いので、せめて食堂車だけでも見学させてほしいとお願いしてみた。最初はかなり抵抗されたが何とかお願いして停車中のしばらくの間乗せてもらうことができた。



 おまけに乗務員さんに一緒に記念写真をお願いしてもらったが一人目は、あっさり断られた。でもせっかくなので、もう一人の乗務員さんにパートナーがお願いしてくれた。

 

その時、パートナーがお願いしたのが、「日本からやってきて記念に写真を撮りたいと言っているのでぜひお願いします」と。そして乗務員は「イケメンの日本人ならいい」と・・・

 

そこで私が登場したら乗務員は開口一番「この人日本人じゃない!!!」って。それでも何とか一緒に写真を撮っていただけました。乗務員さんありがとう。

 

 

そうして北京からウランバートルを経てモスクワまで約5泊の旅をいつか完走してみたいと強く思い、駅を後にして空港へと急いだ。

 

少し話を戻すが10年前もだが私はカザフスタン人に似ているとかよく言われたのだが、今回は似ているというレベルではなく、当たり前のようにカザフスタン人か内モンゴル人と思われていた。それも日本人旅行者や、モンゴルの多くの人にも・・・。 喜ばしいことかどうかは微妙であったが、視察の際は少し役に立ったかもでした。()

そして出発の1時間前に空港に到着。この数日間パートナーを務めてくれたハグワ氏と再会の約束と握手を交わし、ここで別れて空港内へと私は進んでいった。

 

しばらくして出発時間となり経由地北京へと向かった。

 

機内ではまたあのサンドウィッチが出てきて、さすがに今回は手をつけられなかった。

 

そして約2時間北京国際空港へ到着した。出発は翌朝のため北京での1泊になる。ただそのためだけに市内に出ても、いろんな面でマイナスが多いのと、たまっている仕事も進めたいので、空港内の有料ラウンジを高校時代の親友に手配をしていただき泊まる予定。

 

そのため、入国せずにトランジットをしようとしたら、ここからは入れないのでと別ルートを案内され、言われるままに進んで行った。そして最終的に出国してしまうことになってしまった。
そして仕方がないのであらために出国しようとしたら、あなたは国内線だから出国できないとのこと。結局語学力の乏しい私とっては、北京から福岡だから国際線でしょ?と何度も押し問答。そしてどうしても理解ができないので、私の高校時代からの親友の同僚が中国にいるのでホットラインで助けていただいた。彼の話によると私が乗る飛行機は大連経由なので、国内線で大連へ行き、そこから福岡に行けとのこと。
尚更私は理解に苦しんだ。急に変更になったのかもしれないが、それならチェックインの時に行って欲しいし、それが通常ならチケット発行時に行って欲しかった。

私のeチケットとボーディングパスがこれ。ここのどこに大連経由とか国内線で移動とかが書いてあるのか?何でこんなことになっているのかもよくわからず、相手の話す言葉もよく理解できずにバタバタし食事もできず、やっと先ほどソファーラウンジまでたどり着いた。

そして今このブログを不安に包まれながら書いています。

本当に明日、語学力のない私は帰れるのであろうか???

明日無事帰れましたら、モンゴルで思ったことなどのまとめを後日アップさせていただきますのでしばしお時間を下さいませ。

ではでは。

とりあえず明日に備えて仮眠します。おやすみなさい。

今日は朝から前回、モンゴル マンホールチルドレンの現況などの社会問題などをミッションメンバーにレクチャーしていただき、大変お世話になったワールドビジョン モンゴルに、前回のお礼と、作った施設の現況の報告に訪問した。

事務所の移動などもあり、アポなしでの訪問になったが、気持ちよく応対をしていただき、ディスカッションさせていただいた。

私は10年前にくらべマンホールチルドレンは減少したと聞いていた。ただなぜ減少したのかということに、色んな憶測が流れているのが気になっていた。その説明はワールドビジョンさんの報告では5か所しかなかったマンホールチルドレンなどの子供の収容施設が30か所になり減少したとのこと。地元に人によれば、全てがそのおかげではなくて、もっと違うことを言うひともいるが、それはあまりにも恐ろしいことなので、そう考えずに、またそうでないことを願っていたいと思っている。

このようなことや現況などを聞かせていただき、市内や遊牧民の子供たちの教育の話もさせていただいた。ここではわずかな時間でしかなかったのだが、お話をさせていただいたことはとても有意義であり、10年越しのお礼も伝えることができたので胸をなでおろすことができた。

そして最後に、このモンゴルは安心安全な食べ物の確保も容易ではない状況でもあるが、私は花き業界に携わるものとして、花きを通じてモンゴルにできることをお互いに考えていきたいという言葉を残し、再会を約束して事務所を後にした。

そしてその後、食事を済ませ、ナラントール ザハ(市場)を訪れた。

駐車場もまるでルールがあるような無いような状況で車を停めるにもひと苦労する。

ここナラントールザハは、モンゴルで一番大きなザハで食品や家庭用品など衣食住に関わる全てのものが売られていて、生活を実体験できる場所でもある。このザハも以前に比べ、かなり大きくなり、混雑状況も半端ではない。当然どこの国にいってもこういう施設では、犯罪も起きやすく、基本慣れない日本人には正直危険なのでおすすめはできない。現に私が行った時も、目の前でスリが捕えられ連行されたり、壮絶な取っ組み合いのケンカで血を流したりしているものもいた。そんな状況を見て草原とのギャップにおどろかされ、草原の美しさが消えてしまいそうになるからだ。


しかしモンゴル ウランバートルの現状を受け入れたうえで、モンゴルの素晴らしさを感じられるのであれば、一度は行っていただきたいところでもある。

ちなみにこのように花も売られていた。良い品質とは到底言えないが・・・

しばらくザハ内を歩き回ったのだがさすがの私も、人ごみに圧倒されたので、長い時間を費やすことなく移動をした。

そうしてホテル近くをめざしたが、またもやあまりにもひどい交通渋滞。街角にはヒッチハイクのように、車に乗せてくれという人たちが多いため、尚更道が混む。

モンゴルでもタクシーは当然走ってはいるのだが、日本でいう白タクも合法であるらしいので、手っ取り早く普通に走っている車をヒッチハイクのように停めるのである。ちなみに料金は1kmあたり約60円とのことである。さすがにこれも私は未体験である・・・。

そんな渋滞を避け、ウランバートルが一望できるザイサンの丘へ行くことにした。

実はこの丘も、私の今の仕事においてとても重要な意味を持つ場所である。10年前にこの場所から、ある人に国際電話を掛けたことから、今のビジネスがあるといっても過言ではないかもしれないほど、私にとって意義深い場所ある。そしてその時のことを思い出しながら、長い階段を上り下りした。

そしてホテルへ。そのころには日も落ちかけていた。モンゴルのこの時期の日没は20時30分ぐらいなので、それから現地パートナーと食事や打ち合わせ、またもや思い出話をしていたら、夜中になってしまった。

さ~明日は、少し仕事の視察もあるので資料をそろえておかなければ・・・。尻切れトンボのようなブログになってごめんなさいですが、完全電池切れのためごめんなさい。

そしておやすみなさい。

今日は、朝から10年前に建てた小さな学校がどのようになっているかを確認すべく、車で目的のキャンプ地をめざした。

 途中いつものように、草原をひた走る。まだまだ整備が行き届いていない道に体を大きく揺らしている状況は、期待と不安が交錯する自分自身の心を表しているようだった。

途中では、馬や牛、山羊、羊などと出会い、心の中であの学校はどうなったか?とたずねながら、心を落ち着かせるのに一生懸命だった。
そして約2時間、目的地であるキャンプ地が目に入ってきた。

そこには、当時私たちのミッションの現地の中心的存在であるBaatar氏の変わらぬ姿があった。彼はこの地において、サマーキャンプを毎年開催していて、その際に私たちがつくった学校を利用しながら、管理をしていてくれているのである。

彼には数日前に急にそっちへ向かうと連絡していただいただけだったが、遠路より訪れた私たちを、温かく迎え入れてくれた。

そして多く言葉を交わす間もなく、何よりも当時の場所へと早足に移動をした。しばらく歩くと、目の前にはほとんど当時のままの姿の建物があった。

学校の入り口に、当時つけていった看板もしっかりついていた。
 
それと壁に子供たちとミッション参加者が笑顔で一緒に描いた絵も残っていた。

またその絵に、その後参加者が重ね描きをしてくれていて、多くの人がここを訪れ、この場で子供たちと交流し、色んな事をお互いが学び合うことができ続けていることが確認でき、あらためてみんなで作ったことが間違っていなかったと、安堵感とうれしさを同時に味わうことができた。

さらにこの施設ではその後も増築をすすめ、世界各国からのボランティアを受け入れられる宿泊施設も増え、その参加者同士や子供たちが学べる場所もできていた。現在も2人の日本人がこの地で活躍しているとのこと。会って激励したかったのだが、日曜日でお出かけしたとのことであった。これからもこの地で子供たちと触れ合い、様々な学びを得て帰国してくるのであろう彼らに、大きな期待をしたいと思う。


 本来であれば、この施設で、現地の子供たちと各国からくる参加者とともに、一緒に汗を流したかったのだが、日曜日であったのでそのことは叶わなかった。しかし明らかに前進しているここのメンバーの実際の行動とその結果で多くの勇気をいただくことができた。

 さらに普通であれば食べる野菜を作るのに毎日フラフラになっているであろうに、この施設には花も育てられていて、その花は普段私が見る完成度の高い花や、一流のデザインを施された花とも違う、特別な美しさがあり、安らぎと力強さを与えてくれた。 


本当はもう少しここに滞在し、いろんなことをゆっくり考えてみたかったのだが、モンゴルは長い間氷と砂嵐によって閉ざされる時間が長いため夏はとても貴重な時間である。そんな貴重な時間を私に割いていただくわけにもいかないので、かなり後ろ髪をひかれる思いをしながらだったが、彼らと強く握手を交わし、また訪れることと、私たちにできることの協力を約束し、また草原に車を走らせることにした。

10年ぶりに訪れたこの地には、あまりにも当時のまま残っている建物、絵などがあるのが、可笑しくっておかしくって、涙が出そうになった。

本当にありがとう。きっとまた訪れます。また逢う日まで元気に頑張ってください。
私も皆さんに負けないよう、皆さんとの思い出を糧に情熱をもって頑張っていきます。

関空を10:00に出発し、北京国際空港に13時前に到着した。

 ここでトランジット。イミグレーションを通過するとき、目薬を出すのにポケットに手を入れていたら、「ポケットから手を出せ!!」と・・・・・。相変わらず手厳しい。
ポケットに手をいれて叱られたのは、きっと小学生の時以来だと思う。その厳しい口調に、少しムムッと思ったのだが、続いてのボディチェックのときの女性が、とても好意的に微笑みかけてくれたので、少し気をよくして出発ゲート近くまで移動した。

そして時間があるので航空会社のラウンジで食事をとった。

ここの炒飯は庶民的だが中々美味しい。その他鶏肉の炒め物も結構いける。さすが中華はどこで食べても安定しているように思う。それと一緒にオーダーしたトマトスパイシーヌードルは、少し期待はずれであった。

 

お腹も膨れてメールチェックしようとパソコンを開いてアクセスしようとしたら、それが中々うまくWi-Fiにつながらない。そのため仕方がないので持っているスマホのテザリングでつなげたもののかなりの速度遅さ。写真一枚送るのに5分以上かかってしまうほど。
あり得ない。おまけにFacebookもつながったり、つながらなかったり・・・・・。

中国でFacebookがつながる方が珍しいかもだけど、他国と違う相変わらずの状況に正直ちょっとイラついてしまった。

 

そんなこんなでも結構ラウンジでは快適に過ごさせていただき、15時まえのウランバートル行の飛行機に乗り込んだ。

 

飛行機の中では、不愛想な表情でサンドイッチが配られたのだが、おまけにこれが結構厳しい味。さらにジュースは常温。体のことを気遣って常温とは決して思えない心遣いであった。

北京までの日本の航空会社とウランバートル行の中国系の航空会社との違いを歴然に感じることができた。それと同時に今度からは、食事はラウンジできっちり食べて、飛行機の中では口にせず、ひたすらパソコンを開いて仕事に没頭しようと思った。つまらないことでしょうが・・・()でも皆さんもそのほうがいいと思いますよ~~。

 

ま~そんなこんなで、目的地チンギスハーン空港(ウランバートル)に無事到着した。

 モンゴルにつくと、10年前の色んなことが思い出されてくる。うれしいこと。悲しいこと。悔しかったこと。笑ったことなど・・・そのころ私はまだブログを書いていなかったし、Facebookなどももちろんなかったので、皆さんに伝えるすべを持ってはいなかったので、今回はその辺のことも改めて書きながらアップしていければと思っている。

 

まず空港に着くと、初めてモンゴルに降り立ったときのことを思い出された。当時は海外旅行の経験もほとんどなく、語学力もないため言葉もわからない単身の私がマイナス35度の極寒の地ついて、かなり寒く、不安であったことなどを・・・・・

そのことを思えば、この10年間で個人的には少しは成長したのかもしれないと思った。

そして空港で10年前のミッションの現地調査から開催まで、私の手足となって動いてくれたハグワ氏と再会し、今回のスケジュールの打ち合わせを兼ねて、一緒に食事をした。


 今日の晩餐は日本のしゃぶしゃぶのようなものである。このお店は一人に一つずつ鍋が与えられ、自由に食べる。その前の機内食がかなり・・・だったのもあり、ここでの食事はとても美味しく感じた。

そしてお互いが当時の思い出話をしていると話が尽きないため、食事を早目に終えると近くのデパートの視察にいった。

 このデパートは10年前もあったが、改装などもあり、かなりきれいになっていた。
店内には海外ブランドもあり、かなり華やかになっている。

さらに1階入り口付近には花屋さんが、問屋街のように5軒ほど隣り合わせで営業をしていた。同じ場所で数件が隣り合わせて営業とは、日本では見ることができないビジネススタイルに驚きをおぼえた

各店舗ともデザインや品質はかなり厳しいものがあったが、10年前にはこのように売られていることが少なかったので、そのことを思えば随分進んできたように思う。


ちなみにこのブーケで2500円ぐらい。月給が5~8万ぐらいが平均なので、結構高価なもので日常品とは到底言えず全てギフト用なのであろう。

モンゴルの車の80%は日本車に思えるほど日本車が多く、ランドクルーザーの新車も走っていた。価格を聞いてみると1200万だとか・・・。一部かどうかはわからないが、このような車がゴロゴロ走っていて、この10年間で経済も大きく成長したのであろう。後はバブルのように、はじけないことを祈っておこう。

そしてこの日はこの辺で視察も終えることにした。さー明日はこの衣装でも着ていこうかな。

では今日はこの辺で。

おやすみなさい。

今回のモンゴル訪問は大きな目的は2つある。

 

その一つは10年前、NGOの理事をさせていただいたときに、実行委員長として企画、開催させていただいた「モンゴルミッション」において、参加者が大自然や地元の皆さんと触れ合いながら学び、遊牧民の子供たちが少しでも勉強できる機会が得られるようにと、ほとんど何もない大草原にとっても小さいながらみんなで建てた学び舎がどのようになっているかの確認である。

 

そしてもう一つは、弊社が開発会社とともに推進しているセラミック栽培式野菜工場が、モンゴルの地において活用できないかなどの視察と検証をかねての訪問である。

 

今回は予算を節約するために、直行便は使わず北京を経由し、尚且つ特典航空券の旅である。そのために往路は早朝に自宅を出発し、夕方チンギスハーン空港に着く予定。

そして、復路は夕方ウランバートル出発し、北京にて一泊し、翌日福岡を経由し、夜に帰ることになる。

この間草原の中を走り回っている時間が長いため、ブログやFacebookなど中々更新できず、場合によっては帰国してからの、まとめてのアップになるかもしれないが、もしよければ、時間つぶしにでも見ていただければと思っています。

 それでは行ってきます。

 

昨日でせりも終わり、週末まで休市になりました。

 

 

 

今年のお盆は皆さんもご存知の通り、台風の影響を直接的、間接的に受け、厳しい状況になりました。これは生産者、流通、小売りすべてが多かれ少なかれダメージを受けた状況です。

 

うちの会社も、それぞれの部門が一生懸命に取り組みましたが、厳しい結果になってしまい、

改めて天候に大きく左右される業界であり、その怖さを痛感しました。

 

そのような中、私は台風が来るたびに、数十年前に農家の人に聞かされた生の声がよみがえってきます。それはある大きな台風が来た時に、ビニールハウスの前に、カッターナイフをもち、苦渋の判断に迫られた時のことです。

 

このまま台風が直撃したら、ビニールハウスが飛ばされてしまい大きな損害がでてしまうかもしれない。それを避けるためには、ビニールハウスのビニールを切り割き、骨組みだけにしてしまうしかない。ただそうすると、中にある花が全て倒れてしまい、商品価値がなくなり、明日からの食べていく糧を失ってしまう。という話されたことを思い出します。

 

生産者は一年中このような厳しさと背中合わせに営んで来られています。植物によっては数十日間で商品になるものもあるが、数年数十年間の年月を費やして商品になるものもあります。

 

そのような大事なものを、私たちは、ほんの短時間で販売をしていかなければならない業種です。であるならばその植物の大切さ、尊さをもっと感じ、敬意を表さなければならない。理解していかなければない。そしてそのことを生産者の代弁者として、きっちり伝えていかなければならないとひしひしと感じています。

 

私もこのお盆のうちに、改めて考えてみる時間がとれればと思っています。

花き業界の皆様、お疲れ様でした。

それ以外の方々、こんな生産者の状況を少しでもご理解いただければ幸いです。

今日は山梨県 甲府でバラ生産や販売で名を馳せる「コマツガーデン」さんを訪れた。

 

 

コマツガーデンさんは、薔薇の愛好家などの皆さんでは、知らぬ人はいない程の、歴史と実績を持っている会社であり、薔薇に関して草分け的存在である。

 

また現在は代表の後藤みどりさんが、様々なところで講習をされたり、幾度もメディアにも取り上げられたりするほどのすごい方である。

 

そんなところでありながら、厚かましく今回はアポなしの訪問をさせていただいた。

 

実はコマツガーデンさんと薔薇園植物場は父や私の代では交流はあまりなかったものの、両社の創業時や昭和初期には、電撃的な出会いで結ばれていて、互いがその時代を生きてきたのである。

 

ただこの私もそのことには深く知らなかったが、今回の訪問でいろんな話を伝えていただけた。

 

アポなしで伺った今回であったが、偶然にも後藤みどりさんがいらっしゃって、そしてお父さんである会長の小松孝一郎さんもいらっしゃり、私のいきなりの訪問にも関わらず、歓迎していただき創業時の貴重なお話を聞かせていただいた。

 

祖父である金岡喜蔵が甲府のこの地を訪れ、そしてどのようにして小松孝一郎さんと出会い、なぜこの地でバラ栽培が始まったか?ということや、その後の苦労談、祖父金岡喜蔵の武勇伝??などを、多くを聞かせていただけた。

 

そしてその絆を深めるに至った薔薇「オペラ」の逸話も・・・

 

 

話の中には、薔薇において多大な功績を残してこられた鈴木省三氏や岡本勘次郎氏、

駒場バラ園さんや河本バラ園さんなどの重鎮の名前が次々と出てきて、それらの方々と薔薇園植物場が深くかかわっていたことなど、祖父や父から語り継いでもらうことができなかったことを、多くを私に伝えていただけた。

 

その内容は、あまりにも深くとても素敵な話だったので、その一言一言が私の身体に染み込んでいった。

 

そして気がつけば数時間が経ってしまった。

 

また小松さんは、以前に鈴木省三さんに祖父 金岡喜蔵の取り組みについてなどを書籍に残していこうと言われ、取り組みをされようとされたが、鈴木省三氏の逝去に伴い、このことは叶わなかったといわれていた。

 

であるならば近い将来、昭和初期のバラ栽培の変遷について、ここまで知っている方でご存命の方はいないので、是非小松孝一郎さんが、バラ生産の自らの取り組みや、周囲での出来事などをバラの日本史などをつづっていただき、バラ栽培者にのみならず、園芸に関わる多くの人の、教本として残していっていただきたいと願うばかりである。

 

今回の訪問において、小松孝一郎氏や後藤みどりさんから多くのメッセージをいただけた。本当に無形の宝物をいただいたような感じがし、これからも薔薇園植物場の名前に泥を塗らないように頑張っていかなければと改めて感じることができた。

 

いきなりの訪問にも関わらず、ご対応いただき本当にありがとうございました。心より感謝いたします。これからも多くに人に、バラと歩んできた貴重な日々について語り続いていってほしいと願っています。

 

私もこれら先人の功績を後世に伝えるために微力ながら尽力をしていきたいと思いますのでこれからもご指導お願いいたします。

 

最後になりますが、祖父がこの世を去る少し前に、小松さんは祖父の入院を伝えられ、北海道から急遽大阪の病院においでいただいたとのことでした。

 

その時祖父 金岡喜蔵は小松さんの手を握り、「ありがとう。いい人生やった。」と言葉を残したとのこと。そして小松さんも同様に、この世を去る時には、そのような言葉を残していけるほど、一生懸命生きていきたい。それと「出会いは何よりも大切ですよ」とこの二つを何度も繰り返してられました。

 

その言葉は今まで読んできたどのようなビジネス書や様々な書籍よりも、私に多くの力と学びを与えていただけた。ありがとうございました。またお会いできますこと楽しみにしています。

 

 

 

 

今回の出逢いは、きっと祖父が導いてくれたのだと思う。

おじいちゃん。ありがとう。

今日は81日。わざわざ言わなくてもいいと思う人もいるかもですが~~。

 

私の愛する会社の決算は7月なので、8月からは新年度を迎えることになる。

言い換えてみれば今日はお正月かも・・・

というわけで、今月も朝から自宅、本社、営業所、仲卸の神棚をお祀りし、本社、営業所の氏神様の参拝をしてきました。

 

 

昨日までを去年とすると、昨年も本当にいろんなことがあった。

数字として昨年度は到底胸を張れたものではないだろう。でも、少しずつでも自ら考え行動して、伸ばしているスタッフは素晴らしいと思う。そしてまた輸入の増加、輸出事業の開始など新しいことに果敢にチャレンジしていけたことも素敵だと思うし、その辺は胸を張っていいところだと思う。

 

6月には「花き振興法」が成立した。法によって花きの重要性が認められ、法によって守られて行くことになる。これは私たち業界にとっての悲願であったといえる。

このことによって大きなものが動き始める。

 

また7月末には「花の国日本協議会」も設立された。その他にも様々な団体が立ち上がってきた。

 

花き業界にとっては今までにないような追い風ではないだろうか。

 

2020年には東京オリンピックも開催されるなど、今後の花き業界は近年には無い盛り上がりをし、活況を迎えてくるだろうと疑わない。またすでにそこを見越した企業は動き始めている。

 

そのような追い風を受けて前に進むには、ただ単に人任せではいけない。まずは自分がその中心の一員であることを自覚しなければならない。そして風を受けるために帆を立てなければならない。ただ帆だけを立てても、船が時代に即してなければ沈んでしまう。また船は新しくしても、そこに乗り込む船長をはじめ乗組員がきちんとコンパスを片手に、強い信念をもっていなければ、間違った方向に進んでしまうだろう。

 

そして何より、1船だけがうまく風を受けて進んだとしても運ぶことができるしあわせなど限られている。であるならば、目的を同じとするもの同士が手を携え、大きな船団としての船出をしなければならないと思う。大義のために。

 

 

いざ!花を片手にしあわせづくりに出航しようではないか・・・。